■水金町(みずかねまち)
江戸中・後期の遊女町。享保二年(一七一七)に、山先町の傾城屋がここに移転して出来た。少し前の元禄七年(一六九四)検地帳では、「水金沢」とあって屋敷は二反歩余。遊女町の町造りが始まって、下相川村の田地八反歩もふくめた町屋敷が完成する。『佐渡相川志』という書物には、「此川筋ニテ昔ハ水金(すいぎん)ヲ流ス。仍テ名トス。其頃コノ川上ヲ平戸沢ト云フ。万治ノ頃迄此ノ所ニ大ナル買石(製錬工場)アリ」とあって、町名ノ由来が初めて記録される。「水金川」の川名もそれに由来しよう。川上に川水を利用した、大きい製錬施設があったことがわかる。鉱山で水銀アマルガム製錬が行なわれたのは、一七世紀初頭の慶長年間で、両津市和木の「川上家文書」にも、「水銀床屋、海府口小立ノ上ニ立申候」とある。「海府口」は現在の柴町北端をさし、古く海府番所がここに置かれていた。「木立ノ上」はその山側をさし、水金町がその区域に当たる。隣接する水金川河口部左岸の、浄土宗・専光寺(廃寺)は山号が「水金山」で、かってこの川筋で行なわれた水銀製錬の名残りを伝えている。ただし、この寺は元和六年(一六二○)の開基と伝えていて、水銀製錬より遅れてこの地に建つことになるらしい。
■水金謂書(みずかねいわれしょ)
■水金謂書(みずかねいわれしょ)
水金町から、町の歴史について、古来からのいい伝えや、くるわのしきたりなどをまとめ、奉行所に報告した綴りである。活字にはなっていないが、「宝暦八寅年十一月改之候、雑太郡相川、水金町」と表紙されていて、「水金謂書」としてある。この町のなり立ちをかいま見る上で、基礎的史料の一つである。内容を大別すると、山先町(現会津町)にあったくるわが、享保年間(一七一六ー三五)に水金町へ移転した経緯、山先町という町名の由来、水金町に対する古来からの課税と、その変遷、水金町の町名の由来、下相川本興寺門前と、柴町の専光寺門前にはさまれていたくるわ周辺の往来と、その門限の取りきめ、などである。また、相川町々および在方で、私娼(無許可営業)が見つかった場合の取締りと、その逮捕の事例、およびその法的な根拠となる、奉行所の通達などが年別に記されている。なお末尾に「水金町由来」とあって、慶長のころ小六町にくるわが誕生し、元和のころ柄杓町(上相川)、続いて山先町にくるわが出来ていった経緯が述べてある。以上はすべて毛筆書きで和紙に綴られ、原本は相川郷土博物館で保存してある。
【執筆者】本間寅雄
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)
【執筆者】本間寅雄
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)