佐渡・水金町遊廓(佐渡市相川水金町) 2008.07.20

享保2年(1717年)に相川の中心地から集団移転されて以降、水金川の両岸を中心として十一軒の妓楼が店を構えた。佐渡の遊廓の中で源氏名を名乗ることができたのは水金遊廓だけで、それだけの格式があった。

現在は「忍橋」という石橋が残るだけ。妓楼建物は残っていないという前提で訪問した。しかし、そうではなかった。

朽ちて崩れかけてはいるものの「大黒屋」という転業旅館が残っていた。享保以来の屋号を引き継いだ妓楼跡だ。また、石橋の奥には、射的場ならぬ遊興で弓矢を射る店や、甘味屋があったという道へ通じる部分に当時からの石畳が残っている。

そして、水金川の石垣の一部には石臼が嵌めこまれていたりと、遊廓ならではのちょっと変わった趣向が凝らされている。

改築された建物だけど、忍橋の袂に「たまや」という民宿の廃屋があった。住む人が居ないのはもちろんだけど、相続する人すらいない死に絶えたという状態で、土地建物は国庫に納められたという。

別にいろんな理由があるんだろうけど、人買いとも言える遊廓経営者の血筋は絶えるという話を聞いたことがある。何か感じるものがあった。
怪談も語り継がれている土地だ。


遊廓跡を入口(海側)から望む。
左手前から小野見屋、越後屋、住吉屋、柳屋、右手前から瓢箪屋、柏屋、玉屋、坂本屋が並んでいた。



忍橋


忍橋の傍らから海側を望む。家の切れ目の向こうは日本海。


石畳の道が残る。左の建物が矢場、奥の空き地に甘味屋があったという。


村社も夏草に埋もれていた。
付近は「相川児童公園」という人気のない空き地だっだ。


大黒屋


大黒屋(左側)


大黒屋











石垣には石臼が仕組んである
水金とは水銀のことで、江戸時代にアマルガム法で水銀精錬が行われていたことによる。


相川小六町・鶴の湯跡(現駐車場)
水金町に移る前に遊廓がある町だった。

《参考》
■水金遊廓(みずかねゆうかく)
 山先町(現会津町)にあったくるわが、享保二年(一七一七)七月に集団移転してできた。「此川筋ニテ水金(銀)ヲ流ス。依テ名トス」(『佐渡相川志』)が町名の由来となる。移転時のくるわ数は一一軒、遊女は三○人で、営業権の譲渡でくるわの名前はしばしば変わったが、一一軒の数は幕末・明治まで増減がなかった。町割は中央の水金川をはさんで南北に区画され、南側の入り口には吉原風に大門が立ち、本町通りと呼ばれる道幅八尺の通路が水金川までほぼ直線でのび、両側にくるわが建っていて、川には「忍橋」といって円形の橋がかけられ、その川筋にも何軒かが並んでいた。幕末元治元年(一八六四)三月の宗門帳(山本修之助蔵)によると、一一軒の楼名は「夷屋」「平野屋」「海老屋」「大黒屋」「坂本屋」「蔦屋」「松坂屋」「板橋屋」「東屋」「松本屋」「桑名屋」で、遊女は一六歳から二六歳までの四四人。慶長年間に幕府が「公訴」して生まれたくるわであり、その由緒を伝えて吉原ふうにみな源氏名を用いている。「若菊」「東雲」「梅ケ枝」「夕霧」など。現存する身売証文などから遊女の出身地は、江戸時代には島内の娘たちがほとんどで、楼主たちには私娼の捜索や逮捕、ときには課税免除などの特権が与えられていた。「黄金花咲くくるわの全盛」など、はなやかな「名所」として口説節などにもしばしばうたいこまれた反面、「水金怪談」などの哀しい逸話も多く語りつがれている。

■水金町(みずかねまち)
 江戸中・後期の遊女町。享保二年(一七一七)に、山先町の傾城屋がここに移転して出来た。少し前の元禄七年(一六九四)検地帳では、「水金沢」とあって屋敷は二反歩余。遊女町の町造りが始まって、下相川村の田地八反歩もふくめた町屋敷が完成する。『佐渡相川志』という書物には、「此川筋ニテ昔ハ水金(すいぎん)ヲ流ス。仍テ名トス。其頃コノ川上ヲ平戸沢ト云フ。万治ノ頃迄此ノ所ニ大ナル買石(製錬工場)アリ」とあって、町名ノ由来が初めて記録される。「水金川」の川名もそれに由来しよう。川上に川水を利用した、大きい製錬施設があったことがわかる。鉱山で水銀アマルガム製錬が行なわれたのは、一七世紀初頭の慶長年間で、両津市和木の「川上家文書」にも、「水銀床屋、海府口小立ノ上ニ立申候」とある。「海府口」は現在の柴町北端をさし、古く海府番所がここに置かれていた。「木立ノ上」はその山側をさし、水金町がその区域に当たる。隣接する水金川河口部左岸の、浄土宗・専光寺(廃寺)は山号が「水金山」で、かってこの川筋で行なわれた水銀製錬の名残りを伝えている。ただし、この寺は元和六年(一六二○)の開基と伝えていて、水銀製錬より遅れてこの地に建つことになるらしい。

■水金謂書(みずかねいわれしょ)
 水金町から、町の歴史について、古来からのいい伝えや、くるわのしきたりなどをまとめ、奉行所に報告した綴りである。活字にはなっていないが、「宝暦八寅年十一月改之候、雑太郡相川、水金町」と表紙されていて、「水金謂書」としてある。この町のなり立ちをかいま見る上で、基礎的史料の一つである。内容を大別すると、山先町(現会津町)にあったくるわが、享保年間(一七一六ー三五)に水金町へ移転した経緯、山先町という町名の由来、水金町に対する古来からの課税と、その変遷、水金町の町名の由来、下相川本興寺門前と、柴町の専光寺門前にはさまれていたくるわ周辺の往来と、その門限の取りきめ、などである。また、相川町々および在方で、私娼(無許可営業)が見つかった場合の取締りと、その逮捕の事例、およびその法的な根拠となる、奉行所の通達などが年別に記されている。なお末尾に「水金町由来」とあって、慶長のころ小六町にくるわが誕生し、元和のころ柄杓町(上相川)、続いて山先町にくるわが出来ていった経緯が述べてある。以上はすべて毛筆書きで和紙に綴られ、原本は相川郷土博物館で保存してある。

【執筆者】本間寅雄
(相川町史編纂委員会編『佐渡相川郷土史事典』より)