中野 水車小屋のそば粉を挽いた石臼の供養塔  2014.06.02.
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江戸時代、中野区と新宿区の間を流れる神田川には、数多くの水車小屋が置かれ、主にそば粉を挽くために使われていた。そして、全国から玄そばが中野に集まり、そば粉は江戸中の蕎麦屋に供給されていた。

いつしか、そば粉の製造は機械化され、水車小屋の石臼は見向きもされなくなり道ばたに放置された。人間の食に貢献したその石臼を供養するため、寺の境内に集められたのがこの石臼の供養塔である。

この寺の参道の入口に目を付けて何回か通っている寿司屋がある。今日は小生のウン十回目の誕生日。昼は好物の蕎麦を頂き、夜は寿司を鱈腹食うために出かけて行った。

そして、ここんは5ランクほどある握りのメニューの上から2番目に「京橋」という寿司があるのが気になっていた。聞けば、先代の時代から50年、京橋でやっていたという。しかし、再開発でビルを追われ中野に移って来た。

小生の勤めていた会社も長らく京橋に本社を置いていた関係でよくご存じだった。

そして、取っ付きにくい大将だと思っていたら、なかなかお茶目な方だった。寿司の写真を撮ろうとしたらフレーミングの向こうでピースサインを送って、三代目の息子さんだろうか、ボケと突っ込みの漫才を演じていた。

※鍋横物語 庭に残る石臼

※石森製粉


「京橋」