差出人: Masayuki Nakamura [masa-nakamura@mpd.biglobe.ne.jp]
送信日時: 2006年2月19日日曜日 1:52
宛先: 銭湯ML
件名: 冨士の湯(横浜市鶴見区矢向)

ナカムラです。

今日(2/16)は、「冨士の湯(横浜市鶴見区矢向)」に行ってきました。
矢向駅(JR南武線)から0.3キロ、3分程度です。

途中に、この辺りで平行する、横須賀線と南武線を連絡するローカル線風情の単線貨物線の踏切がある。たまたま遮断機が降りて、真っ暗中を電気機関車に牽かれた貨物列車が、ゆっくりと通って行く。電気機関車の重厚かつ独特のモーター音。ゆっくりと通る貨物列車。懐かしい光景だ。

鉄道貨物が衰退して久しい。小生が子供の頃は、貨物列車だから踏切が開くまで時間がかかるな、父がそんなことを呟いていたりしたことを記憶している。

さて、冨士の湯。隣が駐車場になっているので全景が見渡せる。マンションの1階に銭湯が入る下駄履き銭湯。ビルの後方左側に四角く高い煙突が聳えている。

銭湯浪漫の暖簾が下がる銭湯の入口の左側には、マンションの入口、右側にはコインランドリー。今日は雨降りなので、傘を松竹錠の傘縦に入れる。下足箱はアクリル板扉の松竹板鍵のもの。自動ドアを通るとフロントに自販機。飲食スペースもあってなかなかの広さだ。

入浴料400円にサウナ代220円。やや干乾びたバスタオルと、サウナ室用のひっかけキーを渡される。同湯には岩風呂風の温泉露天風呂があって、男女日替わりになっているが、今日の男湯は外れの日だ。

脱衣所は、幅3間、奥行4間だけど、サウナ室とフロントスペースが侵食して、変形かつ広いとは言い難い。壁、天井とも白色が煤けている。天井には半球状のケースに入った監視カメラが3台もついている。酒屋の自販機コーナーにも監視カメラがあったりと、土地柄なのかも知れない。

ロッカーは松竹のシリンダ錠。その他は、小さな縁台とデジタル体重計があるだけのやや殺風景な脱衣所ではある。

浴室は、幅3間、奥行4間。天井は、低くはないけど高くもない。プラ板が張られている。
島カランは1列で、カラン数は、センターから6・8・5と設置数は抑えられ、浴槽を広く設定した配置になっている。湯桶は底に屋号を記した黄色の桶でなかなかシックなものだ。

浴槽は、外壁側から奥壁方向にL字型に配置され、手前から水風呂、主浴槽で8点座ジェット×2、肩揉み、電気、歩行風呂。奥壁でその隣に黒湯の天然温泉がある。主浴槽は41℃くらいと温めでややy物足りない。温泉が43度くらいで丁度いい。コーラをやや薄くしたほどの透明度で、匂い立つ黒湯の香りは無い。

外壁側、脱衣所に食い込むかたちで設置されているサウナは10人用くらい。小さいながらテレビが設置されている。米倉涼子が主演の「松本清張 けものみち」を映している。何回か、エンディングだけ観たけど、何か不気味な番組のようだ。でも、中島みゆきの主題歌「帰れない者たちへ」がなかなかいい。思わず、この前CDを買ってしまった。

ビジュアルは、奥壁全体に絵付のタイル絵。新しいものだけど、これがあるのと無いのでは天地の差がある。入り江の真中に、樹が繁った島が描かれている。描かれている小舟との対比で、大きい島のようだ。本日の女湯の方には、富士山が見える。

上がりは、飲食スペースで、フロントから出てきた女将にサーブされ、生中500円を頂く。料理もいくつか、乾き物も並んでいる。但し、平日の夜につき、ここで寛ぐ客はいない。生中をグビっているのは小生だけだ。

外へ出ると雨足が強くなっていた。ここらあたりも銭湯がいくつもある。同湯の露天にも入ってみたい。また、何回も来ることになりそうだ。


鶴見区矢向(やこう)三丁目 [昭和43年7月1日設置、住居表示]

町名の由来
昭和43年の住居表示施行に伴い、矢向町他一部から新設された町です。
古くは橘樹郡(たちばなぐん)矢向村といい、明治22年の市町村制施行の際、町田村大字矢向となり、大正12年4月1日に潮田町と改称し、大正14年4月1日に鶴見町へ合併して鶴見町大字矢向となりました。昭和2年の横浜市編入に際して矢向町となりました。町名は旧村名を採りました。

四丁目にある最願寺の宝永7年(1710)銘の鐘に「橘樹郡稲毛庄矢向郷」、『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』に「稲毛矢向」の記録があります。地元では、むかし最願寺の祐源(ゆうげん)上人が夜中光明の輝く所を訪ねて行くと光り輝く白衣の観音を見つけ、それを山王権現(現、日枝神社)に祀(まつ)ったことから、「夜光村」と称えたといいます。

その後の伝説で、新田義貞が矢口の渡しの戦いで、日頃念ずる地蔵菩薩の名号を書いた矢を射ると、その矢は川崎の塚越を越えて、この地に飛び、老松に刺さり、それを矢止めの松というようになって、その下に矢止め地蔵を祀ったといいます。それから「夜光」を「矢向」と呼ぶようになったといいます。新田義貞(?−1338)は鎌倉末から南北朝期の武将で、元弘3年(1333)5月に鶴見の付近で金沢貞将(かねさわさだまさ)(?−1333)の軍を破りました。

地名研究で「矢向」とは「川口(川の合流する所)」の意味といいます。一丁目と二丁目の境を横須賀線が通り、三〜六丁目を南武線が通っています。

「横浜の町名」(横浜市市民局)より