差出人: Masayuki Nakamura
送信日時: 2015年4月5日日曜日 0:30
宛先: 銭湯ML (sento-freak@freeml.com)
件名: 松島泉(江東区南砂)

ナカムラです。

今日(11/1)は、「松島泉(江東区南砂)」に行ってきました。東陽町(東京メトロ東西線)から、1.1キロ、13分くらいです。

三連休の初日は生憎の雨降り。門前仲町の「深川東京モダン館(旧東京市深川食堂/昭和7年)」で行われている関西の業者の着物市を冷やかし、清澄白河庭園脇の「旧東京市清澄店舗向住宅(昭和3年)」を観て歩く。

双方の建物ともに旧東京市の建築ながら、前者は窓が大きいインターナショナル様式。後者はアールデコ様式のデザインになっている。建築の歴史的な移り変わりは詳しくないけど、そんな時期だったのかも知れない。

さて、久し振りの城東地域。松島泉へ。コンクリ煙突を有する、昭和31年築創業のモルタルの木造銭湯。昭和44年(1969年)木場が新木場に移るまで、同湯の直ぐ近くまで貯木場が広がっていた。

同湯後方に葛西橋通りが通るという寸詰まりの敷地のせいか、脱衣所と浴室の奥行きが2間半、3間強とそれぞれ寸詰まり感がある。その代わりに少し間口が広い。

入口は建物の側面にあたる長手方向、「松島泉/コインランドリー」とある青いテントの奥にある。最初はコインランドリーの奥にある入口が分からず、入口を探してしまった。

広くはないコインランドリー。暖簾を潜ると松竹錠の下足箱が並ぶ、内装も昔ながらのエントランスが隠れている。言葉では説明し辛いけど、下足箱の1つが男湯と女湯への硝子戸への進路を分ける衝立の役割をしている。特にタイル絵などはないけど、番台裏の硝子小窓の意匠がイニシエの雰囲気を誘う。

番台への戸を開ければ、木目プリント合板を張った前面がカーブした番台に下町の親父然とした大将が座っている。

脱衣所の広さは、幅3間強、奥行2間半と寸詰まり。その代わりか、外壁側に2畳ほどの”小あがり”が外に張り出すように設けられている。天井はアールの部分が白く塗られた折上げ風の格天井。

ロッカーは島ロッカーは横置きにSakura-3錠のものが1つと、外壁側小あがりの横に、Sakura-2錠の幅の狭いものが置かれている。

古い硝子戸の向こうには、時を経て好ましく枯れた質素な濡れ縁があり、庭には鉢植えが並べられている。女湯では同様の箇所が通路兼コインランドリーになっているので庭は男湯だけかも知れない。

アナログ体重計はKeihokuHakari。飲料の冷蔵庫には瓶牛乳が並んでいる。

浴室の広さは、幅3間強、奥行3間半。天井は丁寧に維持された木板にペンキ塗りのもので、縁が井桁状になっている高天井は、その縁の部分が朱に塗られてアクセントになっている。木造の構造材が手間のかかる白木のまま維持されているのもいい。

横幅の有る浴室ながら島カランは1列のみで、カラン数はセンターから5・4・4・5。床のタイルは白色の中判で4枚で1つの紺色の幾何学模様を構成するもの。カラン台側面には寒椿をあしらった淡いブルーのタイルが珍しい。

浴槽は、1人用の薬湯と深浅2槽が奥壁に1列に並ぶ。薬湯は透明なブルーのすっきりとしたもの。主浴槽の浅槽にはジェット×2、深槽は座ジェット×2。

江東区一帯の井戸は塩気があって使えないらしく、同湯では水道水を重油と廃材で沸かしている。深浅2槽の白湯は42度くらい。薬湯は40度強といった温い温度に設定されている。ピリピリ感は微塵も感じない。上がった時には相方に茹で蛸だと笑われるくらいにお湯と、同湯の雰囲気を堪能した。

ビジュアルは、奥壁に丸山さんの静謐な富士山のペンキ絵(男湯は美保の松原/女湯は潮岬/26.7.2.)。今夏に描かれた新しいものでペンキの艶が十分に残っている。

スペックから見れば、同湯に何があるということはない。しかし、番台後方窓の細やかな作り込み、素朴な濡れ縁、2畳敷きの居心地がいい小上がり、丁寧に清掃された浴室、丸山さんの静謐な富士山のペンキ絵。そして、水道水を重油と廃材で湧かした湯など、全てが奏で合い、上がった時にこの素晴らしさに相方と小躍りした。

何もかもが”普通に優れている”。強く印象に残るいい銭湯だった。

近くのバス停から門前仲町駅行のバスがあるけど、今さっき発車したばかりで、次便まで30分もある。門仲の魚三酒場が気になったものの東陽町駅まで10分余り歩いて「匠」という居酒屋に入った。安くて美味しい、なかなかいい店だった。


《ご参考》
深川東京モダン館(旧東京市深川食堂)

所在地 江東区門前仲町1-19-15  東京市深川食堂は、東京市が社会事業施策として、大正9年(1920)から順次設置した16ヵ所の市設食堂のひとつです。延床面積は106坪。関東大震災の復興事業の一環として、昭和6年(1931)に着工、翌昭和7年(1932)に竣工しました。市設食堂とは低所得者のために安くて栄養のある食事を提供する施設のことです。昭和11年(1936)に閉鎖されましたが、昭和13年(1938)に東京市深川栄養食配給所として活動を再開、東京大空襲で被災しましたが全焼をまぬかれ、戦後部分修復して、東京都の職業斡旋施設となり、昭和32年(1957)には授産機能、昭和36年(1961)には福祉機能が追加されました。昭和54年(1979)に江東区へ移管され、「江東区内職補導所」と改称し、数度の名称変更を経て、平成18年(2006)に閉鎖されるまで利用されました。

 構造は2階建て鉄筋コンクリート、外壁はモルタル下地吹上仕上げ。大震災の教訓を活かし、当時の最先端技術である鉄筋コンクリートが採用されました。デザインの特徴は、明るく開放的な吹き抜け空間になっている階段室と、2階南側のスチール・サッシュ窓にあります。震災復興の近代建造物としての稀少性が認められ、平成20年(2008)に国登録文化財に登録されました。

(出所)平成21年(2009)9月 江東区教育委員会


●旧東京市清澄店舗向住宅

旧東京市店舗住宅概要所在地江東区清澄3丁目49戸清澄庭園の一角に立地、清澄通り沿い商店街(建設当初)土地面積実測698.70坪構造 鉄筋コンクリート2階建て用途1階店舗 2階住居(当初は賃貸の店舗付住宅) 間口2間半戸数全48戸(建設当初) 5から8戸で1棟竣工昭和3年(1929年)現戸数:全43戸(6戸は解体されたと考えられる)現在も店舗として使われているもの22戸ファサード改装状況:1階部分は全戸改装2階部分改装なし18戸、一部変更5戸、全面改装20戸,その他3階を増築30戸明治13年概成の岩崎家所有の庭園深川親睦園の付属地、庭園管理の為の長屋であった。(この長屋は造園当社から存在したと思われるが正確な年代は不明)震災でこの長屋は焼失。大正13年ここを含む庭園の東半分を東京市に岩崎家が寄付し、居住者の為に東京市が店舗住宅を防災の観点で鉄筋コンクリートで計画の上、昭和03年完成。東京市は賃貸の店舗住居を庭園の管理財源となる財産として、庭園と共に焼失した長屋部分も受け入れたと思われる。戦後昭和28年土地付で居住者に払下げられる。

深川親睦園岩崎弥太郎が明治11年に伊勢崎町・清住町の一部の土地約三万坪を買い上げ三菱社員の慰安の場に、、或いは内外賓客の接待の場として築園。(幕末のころはこのあたりは、久世大和守、戸田日向守・松平美濃守・松平右京などの下屋敷や、伊奈半左衛門・岡野竜之助等の豪族の館があった)

(出所)笠谷百合子・建築設計研究所 笠谷百合子氏 江東区散歩4 より

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ナカムラ (Masayuki Nakamura)
URL: http://furoyanoentotsu.com(風呂屋の煙突)
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●深川東京モダン館(旧東京市深川食堂)














































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