三国・滝谷出村遊廓跡 H17.8.22

三国湊では、当初松ケ下にあったが、湊が西へ伸びるとともに、西へ移動し、万治二年に町立てされた上新町に牛頭天王宮が勧請されるとその周囲に集まるようになった。また、それに続く丸岡藩領の滝谷出村にも遊女町が形成された。

寛政元年の上新町の戸数は高持七八軒、無高三二二軒、合計四〇〇軒であり、人口は男五一〇人、女六四〇人であった。そのうち遊女持の家(置屋)が二二軒、遊女は一〇〇人であった(『三国町史』)。

慶応元年(一八六五)には遊女持二軒(遊女二六人)、置屋から遊女を呼んで遊ぶ揚屋が一一軒、軒見世二八軒(売女三七人)であり、町内天王社の境内には芝居の常設小屋があったことが知られる。

滝谷で村については、享保五年に「家数三百七十、傾城八十五人、流行長谷川」という記録がある(『三国町史』)。この長谷川というのが、俳諧で著名な哥川であり、彼女のように相当な教養を身につけた遊女もいたのである。


(出所)『福井県史』より。



出村遊廓の入口にある「思案橋」


「福桃苑」という屋号が残るお宅


表どおりと交差する目抜き通りと思しき道


数軒のスナックが入る建物。













芸者置屋の建物(明治前半)で営業する「魚志楼」


「魚志楼」


鉱泉付アパート