差出人: Masayuki Nakamura [masa-nakamura@mpd.biglobe.ne.jp]
送信日時: 2006年4月30日日曜日 20:43
宛先: 銭湯ML
件名: 杉田湯(横浜市磯子区中原)

ナカムラです。

今日(4/29)は、「杉田湯(横浜市磯子区中原)」に行ってきました。
杉田駅(京浜急行線)から、0.2キロ、3分くらいです。

横浜市もこの辺りに来ると、かなりローカルな風景がある。駅の階段を下りると広い駐車場があり、少し遠くに銀色の油井型の煙突と浴室棟を見渡すことができる。でも、駐車場をコの字型に迂回して行かなければならない。

クルマがやっとすれ違える細い道の電柱に「杉田湯」と矢印が書かれている。私道に入ってからのアプローチもそこそこ長く、さらにもう一回曲がるので、表からは同湯を見渡すことができない。やっと現れた建物は入口部分、脱衣所棟がモルタルのもの。典型的な昭和中期ごろの量産型銭湯だ。

古銭デザインの暖簾を潜ると正面には傘を突き刺す式の傘入れ。だいぶ古ぼけている錠は「MON」。下足箱の錠はカナリア錠。なかなか古風なラインナップだ。
番台への扉には、隙間風を避けるためか、スポンジが貼ってある。番台は新建材の番台。女将に400円を払う。

脱衣所の広さは、幅3間、奥行3間半。壁はグレー木目調の、日本がまだ貧しかった頃が思い返される新建材。天井も、グレーではないものの、木目をプリントした新建材が張られている。外観のモルタルもそうだけど、内部も典型的な昭和中期の内装だ。

島ロッカーが中央に1つ。外壁側にもロッカーがある。錠はブロック形状のごついもので、シリンダ錠になっている。脱衣籠も積まれていて、それを使っているご常連もいる。

脱衣所はコインランドリー機能を兼ねているらしく、入口方にドラム型の乾燥機が1台、浴室方にコイン式の洗濯機が2台あって、どれも稼動中だ。土木工事の現場があるとも思えないから、マンションの建設現場なのか、大きなバッグを担いでやってくる「現場」の人が多いのが意外だ。

その他、新型のマッサージ機、Keihokuのアナログ体重計なんかがある。

浴室は、幅3間、奥行4間。天井はウィング幅1.5間の2段型で高天井の高さは3間はある。ペンキでの手入れは良く、ブルーの天井の支えには幾何学模様がはいっていて、その部分をペンキで白抜きにしている。初めての遭遇かも知れない。

島カランは1列で、カラン数はセンターから6・5・5・5。カランは、日の丸扇の刻印がある取っ手がブルーのもの。両サイドのカランには、1つ置きに壁に手摺が付いている。バリアフリーの一環なんだろうけど、洗い場に手摺があるのは珍しい。

タイルは全て新しい肌色の大理石紋様のものに置き換えられている。カラン廻りだけでなく、男女境や外壁もそうだ。あまり好きなタイプのタイルではないけど、ここまで張り込めば、明るい感じがして悪くない。床は微かにパール色に光るタイルが使われている。

浴槽は、深浅2槽。深槽が7点座ジェット×2、浅槽がミクロバイブラで、焚き出し口には格子があって、中に石が入っていて、ピンクで照らされている。

ビジュアルは中島師のペンキ絵。女湯に富士山があって、男湯は良く見る渓谷の図だ。このペンキ絵と、ブルーのペンキ塗りの釜場の木製引戸、その廻りの深緑色の豆タイル。これらが、古い雰囲気を微かに保っている。

土曜日の18:30から19:15に滞在。相客は7、8人。高齢の方は少なく、大半が中年までの「現場」の人だった。上がりは、直ぐ近くの酒屋で発泡酒を買って飲む。

その後は、京急で弘明寺に出て、久し振りに「大衆焼肉」で夕食。相変わらず繁盛している。
マコッルリ、グラスワイン(赤)、カルビ、ミノ、たん塩×2、トマト、玉ねぎ焼、半ライス。いつもどおり食べ過ぎた。2,650円。





満席で入れなかったけどこの寿司屋も評判がいいらしい。

久し振りの「大衆焼肉(弘明寺店)」

磯子区中原なかはら)四丁目 [昭和46年7月5日設置、住居表示]

町名の由来
昭和46年の住居表示施行に伴い、新杉田町、中原町、森町、栗木町、田中町、杉田町の各一部から新設された町です。

古くは久良岐郡(くらきぐん)森公田村、森雑色村といったが、後に分村して森中原村となり、明治22年の市町村制施行の際、磯子村、滝頭村、岡村、森村、杉田村と合併して屏風浦(びょうぶがうら)村大字中原となり、昭和2年に横浜市に編入して中原町となりました。

この辺は山麓に村落が設けられ、樹木が特に繁茂していたことから森村の名が起こり、この辺は三村の中央なので中原と呼ばれたといいます。『新篇武藏風土記稿』の「森公田村」の項に「土地の中央にして平衍(へいえん)なれば、中原と名づけ」の記録があります。

一・二丁目と三・四丁目の境を京急本線が通り、一・二丁目の東側を横須賀街道(国道16号)が通っています。四丁目に源頼朝の命により創建された熊野神社があります。

磯子区杉田すぎた)七丁目 [昭和54年7月23日設置、住居表示]

町名の由来
昭和53年と昭和54年の住居表示施行に伴い、杉田町、栗木町、中原町、上中里町、金沢区富岡町の各一部から新設された町です。

古くは久良岐郡(くらきぐん)杉田村といい、明治22年の市町村制施行の際、磯子村、滝頭村、岡村、森村、森中原村と合併して屏風浦(びょうぶがうら)村大字杉田となり、昭和2年に横浜市に編入して杉田町となりました。

『新篇武藏風土記稿』の「杉田村」の項に「正保・元禄二図には寺家(てらや)村と記す。杉田は古名にして、妙法寺大寺なりし故、中頃寺家と号し、今又古名に復せり。彼寺縁起に、古此地杉多し。故に杉田の名起れり」の記録があります。また、一丁目にある東漸寺(とうぜんじ)の大杉から「杉田」と呼ばれるようになったともいいます。

地名研究で「スギ」は「砂礫地(されきち)」を意味するといいます。杉田の領主、間宮信繁が奨励した杉田の梅林は、今から400年ほど前に作られたものです。地質が悪く穀物作りに適さなかったこの地でも、梅の実の生産は向上し、幕末には根岸から富岡まで梅林が広がっていきました。2月に梅が満開になると、甘酸っぱい香りが遠く観音崎の沖合まで漂っていたといいます。

観梅の中心として知られた妙法寺(杉田五丁目)は、江戸時代、佐藤一斉の「杉田観梅記」や清水浜臣の「杉田日記」で紹介されると屏風浦(びょうぶがうら)の景観とともに多くの人が訪れる観光地となりました。寺の境内には、照水梅・双龍梅などと命名された立派な梅があり、観梅客をもてなす茶屋が数多く見られました。

今でも花開く頃の境内には紅白の梅が所狭しと咲き競っています。また、妙法寺から青戸坂を上った高台には、梅林小学校と名付けられた、いかにも観梅の里にふさわしい名前の小学校もあります。
「横浜の町名」(横浜市市民局)より