差出人: Masayuki Nakamura [masa-nakamura@mpd.biglobe.ne.jp]
送信日時: 2006年3月4日土曜日 22:53
宛先: 銭湯ML
件名:
ナカムラです。

今日(3/3)は、「千歳湯(横浜市鶴見区元宮)」に行ってきました。
鶴見市場駅(京浜急行電鉄)から、0.6キロ、6分くらいです。

町名に「市場」が付いている。江戸時代に、海が近く魚市で儲けた人が多く、村の名前に採用されたらしい。同駅は、位置はもっと八丁畷寄りだったけど、明治38年12月、川崎〜神奈川間の開通と同時に、その地名から「市場停留場」として開業している。

平安湯(鶴見区平安町)の帰路、駅の南側を歩いたけど、同駅の中心は北側のようだ。駅からの道には「いちば銀座」という古風なアーチがいくつも架っている。暫く北に進むと熊野神社という古風な神社にぶつかる。前面道が、東海道五十三次の旧東海道。魚市が立っていたのもこの辺りのようだ。

この旧道のスーパーヨコサンの向かいに平安湯の弟さん経営の「ローマ風呂」なる屋号の銭湯があり、建物だけは残っていると聞いたので、向かったけど、やはり無い・・・。よくあることだ。今度、ぐっちゃんにどんな銭湯だったのか教えてもらおうっと。

さらに北に進むと東海道線、京浜東北線、貨物線と5本の線路が通る「古市場踏切」がある。傍らに酒造会社の古風な看板を並べた酒屋があって、さらに線路側の側面には伏見の清酒「日出盛」のネオンがある。辺りが暗い中で、ぽつんとあるネオンは、通勤復路、夜の車窓風景で記憶に残っている。

同湯は線路から100メートルくらい進んだところにある。廃業した店が多い、商店街とは呼べない通りだ。

千鳥破風の脱衣所棟の前に直方体の建物を増築した、よく見る構造になっている。ファッサードには、コミカ風呂ブランドの特徴である、ピンク色のネオン管が走っている。

昭和30年頃に建てられた木造伝統銭湯ながら、煙突が見当たらない。後方に回ると、ピカっと電灯で照射され驚くけど、煙突の残骸といっていいくらいの短いものが残されている。同湯はガスで湯を沸かしていて、大きな煙突が不要だけど、解体費用が嵩むので、こんな中途半端な状態になっているようだ。

牛乳石鹸の暖簾を潜ると下足スペース。錠はSakuraG錠で札はプラスチックのもの。自動ドアを入ると、赤バラ絨毯のフロントスペース。フロントの周りが懐かしい雑貨屋のようになっている。たくさんの入浴道具がガラスのショーケースではなく棚に並んでいる。販売用のトイレットペーパーやティッシュが、たくさん積まれているのも、それらしい。

江川紹子似の女将に400円を渡す。サウナもと告げると、無料とのこと。昭和62年の中普請で、サウナを増設してるけど、当時から無料でやっているようだ。

脱衣所の広さは3間四方。天井、壁は白いクロス張りで、天井高さは2間強、明るく清潔だ。
ロッカーは、外壁側と島ロッカーが1つで、錠はSakuraVのシリンダ錠。その他、Yamatoのデジタル体重計、飲料の自販機、新型マッサージ機などがある。

浴室との仕切り壁には白にピンクを流した模様タイルが使われている。入口が緑のギザギサマットになっているのは、やはりコミカ風呂ブランド。上を見るとコミカ風呂の「総合建設 イシイ」のシールが張ってある丸時計が架っている。

浴室の広さは、幅3間、奥行4間の標準サイズ。天井は高天井部がやや広目の2段型、張られたプラ板が20年近くの時を経てやや黄ばみが出ている。

コミカ風呂というと奥壁の装飾タイルが特徴的だけど、同湯はそれが男女境にある。浴槽も男女境に接して縦に並んでいる。島カランは外壁から櫛型に延びたものが2列で、カラン数は奥壁から5・4・4・4・4・3。入口壁には左記の3つのカランの他に立ちシャワーがある。

天井の黄ばみは如何ともし難いけど、床、カラン周りのタイルは清潔至極で快適だ。Yaguriの銀のカランとシャワーもピカピカ。恐らく、乾布で磨き込まれている。ご常連の話では、大女将がいつもタイルを磨いているという話しだけど、そのひたむきさが実感できるものだ。

その大女将の感性なのだろう。「廻りに迷惑にならないよう、シャワーは静かに使って下さい」という趣旨の掲示がある。シャワーを「静かに使う」。詩的な感覚だと思う。

浴槽は、高麗人参の宝寿湯が奥にあって42.5℃くらい。手前が、少し形状が異なった座ジェットが2機ずつ、計4機ある。こちらは42度弱といったところ。

サウナは外壁の外に設置されている。6〜7人くらい入れる立派なもの。静寂で何もないけど、窓の外に設置されている丸時計のピンクのネオンが、サウナ室にアクセントを与えていてなかなか居心地がいい。敷物が濡れているので寝ころがることはしなかったけど、水風呂あるいは外気浴室と何往復しただろう。

水風呂は1人用で小さいけど、同湯はサウナ室よりも広い外気浴室がある。初めはスチームサウナに見えた。相客の1人は雪の日なんか最高だよって教えてくれる。

ビジュアルは、コミカ風呂的な厚手の装飾タイルでのデザイン的なものが、男女境を中心と、奥壁に少々。コミカ風呂的な装飾は小生の嗜好に合わないけど、同湯のものは金色を使用しているのも特徴的だし、悪くないななと感じた。カラン台は真っ白な大きな白タイルが張られていて、脚部には枯れ葉をモチーフにした茶色のタイルが張られていて、これもなかなかいい。

上がりは、スーパードライが230円と安い。21:15から22:50と長湯してしまった。無料サウナ、清潔な浴室と基本性能は高い。相客が10人くらいと少ないのが気になった。

同湯の近くに矢向駅と生麦駅を結ぶ路線バスの元宮バス停がある。1時間に2本ほどだけど、これで矢向駅(JR南武線)あるいは鶴見駅(京浜東北線)へ出られるようだ。


旧東海道、慶応元年創業との看板がある

古市場踏切

鶴見区元宮(もとみや)一丁目 [昭和43年7月1日設置、住居表示]

町名の由来
昭和43年の住居表示施行に伴い、市場町他一部から新設された町です。町名は地元の要望により通称名を採りました。

この地に熊野神社がありましたが、鶴見川の改修工事で鉄道線路へ、さらに、市場東中町へ遷座(せんざ)したため、「元宮」というようになりました。西側を鶴見川が流れています。一丁目と二丁目の間を横須賀線が通り、二丁目の北西側を第二京浜(国道1号)が通っています。

「横浜の町名」(横浜市市民局)より


鶴見区市場上町(いちばかみちょう) [昭和43年7月1日設置、住居表示]

町名の由来
昭和43年の住居表示施行に伴い、市場町の一部から新設された町です。

古くは橘樹郡市場村で、明治22年の市町村制施行の際、市場村、江ケ崎村、矢向村、潮田村、菅沢(すがさわ)村、小野新田、小田村飛地を合併して町田村を立てその大字市場となり、大正14年に鶴見町へ合併して鶴見町大字市場となりました。昭和2年の横浜市編入の際、市場町となりました。町名は通称として地元に定着していた名称を採りました。

この地区を旧東海道が通り、熊野神社沿革によると「此(この)地方は往古からの海辺で漁・塩の利が共に豊富であって、天文の頃には魚介の市を開設して利を獲た者が多く、遂に村名とした」の記録があります。市場は市場下町から元宮にかけてあったといいます。また、豊田武の『中世日本商業史の研究』は、応安4年(1371)武蔵国鶴見郷内に新市があったことを明らかにしました。

北西側を東海道本線、京浜東北線、南東側を京急本線が通っています。町内に市場商店街があります。
「横浜の町名」(横浜市市民局)より


鶴見区市場西中町(いちばにしなかちょう) [昭和43年7月1日設置、住居表示]

町名の由来
昭和43年の住居表示施行に伴い、市場町の一部より新設された町です。町名は通称として地元に定着している名称を採りました。北西側を東海道本線、南東側を京浜急行本線が通っています。

町内に東海道の「武州橘樹郡(たちばなぐん)市場村一里塚」(慶長9年築造)の記念碑(昭和8年6月建立)があります。一里塚は、慶長9年(1604)、徳川家康が江戸日本橋を起点として東海道・中山道・北陸道の三街道に築かせた路程標です。塚の大きさは五間四方(一間は約1.8メートル)と、かなり大きめであり、旅人はそれを里程の目安として旅をしました。

江戸日本橋から京都までの東海道全体の里程は、約125里(約500キロメートル)に及んでいます。 市場の一里塚は、江戸の日本橋から五つめの一里塚で、塚に生える榎は、夏になるとよく繁り旅人の絶好の休息場所となっていました。秋になると、その実で一時飢えをしのぐこともでき、また、人夫の賃金を計る基準ともなっていたといわれます。
「横浜の町名」(横浜市市民局)より