差出人: Masayuki Nakamura [masa-nakamura@mpd.biglobe.ne.jp]
送信日時: 2005年1月23日日曜日 22:44
宛先: 銭湯ML
件名: 常楽湯(鎌倉市台)

ナカムラです。

今日は、「常楽湯(鎌倉市台)」に行ってきました。
「弥坂湯」に浸かり、いろいろと遠回りしての2湯目。
ハシゴというより、時間がたったっし、疲れたので素直に風呂に入りたくなったという感じかな。

「弥坂湯」から、箱根湯本に戻り、塔ノ沢の「上湯温泉浴場」に向かった。
現地に着いて、10数年前に芦ノ湖からの帰りに入ったことを思い出す。
「箱根駅伝」の日とは知らず、オートバイでやってきて、白バイの指示で2位順天堂の走者の後を30分近くも追走した。思い出してもヘンな経験。
今でも、あの時はテレビに映っていただろうなと思う時がある。

イマイチという記憶だったので、「上湯温泉浴場」に入る気が起こらず、通り過ぎて大平台に向かって歩く。
しかし、判断の甘さがあり、途中で日没。湯本へ引き返した。

それにしても、箱根の国道は車ばかり。歩いている人間なんていない。
道幅も狭いので疲れよりも身の危険を感じる。クルマにも迷惑だろう。
万歩計を見ると今日は15キロも歩いている。

当然、腹が減ったので、ここのところ毎週通っている大船の「観音食堂」へ。
樽酒に刺身、塩辛、天丼と、運動量が多かったので、いつもより少しばかりの贅沢。

腹もくちてきたので、こちらも先週に引き続き、ひばり湯を通り過ぎて「常楽湯」へ。

暖簾をくぐると、傘立ての後ろに福二画の福助のタイル絵。
その上に「常楽湯」との書かれた扁額がある。
下足箱の錠は「富士錠」。箱や木札が、ガムテープやビニールテープで補修されて満身創痍という趣き。

脱衣所は、幅2間半、奥行2間。天井は普通の天板で高くはない。
外壁側に松竹板鍵のロッカーはあるものの、20個積んである脱衣籠が主力になっている。
石油ストーブが焚かれ、アットホームな感じがする。

浴室は幅2間半、奥行3間。
天井は2段型だけど、ウィング部が斜めの部分とフラットの部分に分かれる3段型と言ってもいいタイプ。

島カランは1つ。カラン数は、センターから5・5・5・5。
カランが、湯は旧方の日の丸扇の温泉マーク、水が旧型のWaguriの管がホームベースタイプのもの。
ブランドが混在しているのは珍しい感じがした。

床のタイルは、クリーム色の波型のもの。
総じてタイル類に古いものはないが、昭和中期的な懐かしさが漂っている。

浴槽は深浅2槽。浅槽の床に鯉が2匹泳ぐ図がタイルで組まれていた。

同湯は昭和15年築の古銭湯。
破風の入口の暖簾上の漆喰の壁を見てもその古さが判る。

先代は17年前に亡くなられているが、新潟から出てきて、三助を振り出しに東京で10数軒を経て、ようやくこの地で自分の店を持ったらしい。
後に「西の湯(横須賀市久里浜)」も手に入れた。
今も、こちらのご主人の弟さんが経営を引き継いでいる。

女将がここに嫁いだ昭和39年に、鎌倉市には16の銭湯があったとのこと。今は6つ。
同湯の近くにも、当時ひばり湯はなくその近くに「千代の湯」。東海道線の踏切を渡った旧新富町(現台1丁目)に「マルモ湯」。
北鎌倉には、同湯と遠縁にあたる「第二桜湯」。こちらは画家のアトリエとして建物が今でも残っているらしい。

土曜日の20:45。客は小生一人。笹野師の富士山を撮影させてもらう。
ご近所のハズ。どこら辺に住んでいるのか尋ねると、同湯から0.3キロくらいの場所で、先代の富輝氏のこともよくご存知だった。

富輝氏は、うまく描けた時はカメラを持参して写真を写していたとのこと。
貴重な資料が、「新世美術」には残っているのかも知れない。
東京の絵師との差は、丁寧というのか、絵を描くスピードに大きな差があったらしい。

帰りに、傘立てをどかして福助のタイル絵撮影の許可を請うと、番台から降りて傘立てをどかすのを手伝ってくれた。
傘立てなんて自分で動かせると思っていたけど、同湯の傘立ては、一人では動かせない代物だった。

それに、タイル絵を傷つけないようにとの微妙な間隔もあるらしい。
福二画のタイル絵に対する温かさが伝わってきた。

明日は臨時休業。先代女将の十三回忌法要。

(追伸)
帰り際にやってきた常連の話になった。
藤沢の「梅の湯」が廃業になり、バイクでやってくるお客とのこと。

翌日確認すると、H16.7.1.で廃業したとのこと。
地方銭湯の雰囲気があった小銭湯だったのだが・・・。





福二画の福助


満身創痍の「富士錠」