差出人: Masayuki Nakamura [masa-nakamura@mpd.biglobe.ne.jp]
送信日時: 2004年4月18日日曜日 17:20
宛先: 銭湯ML
件名: 泉湯(横浜市中区北方町)

ナカムラです。

今日(4/17)は、「泉湯(横浜市中区北方町)」に行ってきました。
駅からは遠いので行き難い銭湯。設備が少ない銭湯のようで、前から気になっていた。
根岸線の石川町駅か山手駅、双方から2キロ、30分近くかかる。

今日は外観を確認するだけのつもりだった。三渓園近くの「日の出湯(本牧三之谷)」、廃業の看板を見つけ図らずも「本牧湯(横浜市中区本牧町)」にも入ったので、既に3湯目。

昨年夏以来、銭湯めぐりに精を出しているけど、丁度ここが100湯目。
数にこだわるタチではないけど、ひとつの大きな通過点。少し、感慨にひたりながら暖簾をくぐった。

同湯は、港の見える丘公園からの尾根の下に位置している。
近くにはその尾根を突き抜く「見晴トンネル」や、湧水があって麒麟麦酒つまりは日本のビールの発祥の地もある。

入口はトタンの三角の小屋根。脱衣所棟の前にも三角の小屋根が付いている正統的な形。小生好みの小銭湯。見ていると若いきれいな女性が暖簾から出てきた。この銭湯、若い女性も通う魅力があるのかな・・・。

入口の小屋根の下にはまさに表札。縦に「泉湯」と書かれている。穴あき銭の暖簾をくぐると、ハの字型に入口がある。戸を開けると下足箱がある三角形の本当に小さな小部屋。天井は細く薄い木の板が打ちつけられている。おそらく建築当時のオリジナルな部分だと思う。

横須賀や湘南の小銭湯では、すぐ脱衣所というのが多いけど、ここはさらにもう1つ戸がある。湯屋会のリストでは番台と記されているけど、番台を後ろ向きにした小さな小さなフロントがあって、太めの若いあんちゃんが座っている。このフロント、しっかりとした木で組まれていて、昔からこうであったかのように周りに溶け込んでいる。さっきのように若い女性を配慮してか、開口部はカーテンが回してある。

天井は格天井(6×10)。しかし、高くはないし、天板は古くない簡素な材で作られている。幅は2間半、奥行は3間。外壁側に12個の松竹シリンダ錠の新しいロッカーが12個だけあって、主力は脱衣籠の様子。床は板の間に何回か茶色のペンキを塗り重ねた感じのもの、表面はデコボコしているけど、足を乗せた感触はどっしりしているし悪くない。

男女境には、なんのデザインかは理解できなかったけど、古い、作りのしっかりしたステンドグラスが木枠に入って飾られていた。脱衣所には、他にテレビ、冷蔵庫、ケイホクのアナログ体重計、木製のしっかりとしたテーブルとベンチ、新型のマッサージ機、1人用のソファ、それにコミック本や雑誌が置かれている。壁には金沢八景の浮世絵のレプリカが掛かっていて、それもここの雰囲気に合っている。相客が1人と少ないせいもあるけど、落ち着いた、いい空間だと感じた。

浴室は、幅2間半、奥行3間くらい。天井は2段型。床や壁などタイル類は新しいものに改修されている。島カランは1列。カラン数はセンターから5・4・4・5。カランは「Waguri」の銀の取っ手のもの。両サイドにのみシャワーが付いている。島カランには、鏡もついていないけど、その部分に高齢者用の手摺が渡してある。こういうのは初めての遭遇。

浴槽は外壁側に茶色の薬湯。温度が結構高かった。45度近かったと思う。もう一方が座ジェット×2と湯面が静かなお風呂。その間に手摺が渡してある。温度は43度くらい。

ビジュアルは、丸山師の西伊豆からの富士山のペンキ絵。H14.10.7の日付と「丸山」の銘がある。丸山師のペンキ絵で銘があるのを初めて見たかも知れない。そして男女境には、緑のタイルに囲まれて縦3枚×横15枚のタイル絵が2幅描かれている。(橋の絵は立ちシャワーブースにより横3枚はカットされている)浴槽側が茅葺の門と畑が描かれている。もう一方が川に木橋、舟が描かれている。ともに銘等はない。絵柄としてはなんだか拙い感じの絵ではある。

上がりはアサヒの赤ラベル150円也。

小さい銭湯の奥壁にしっかりしたペンキ絵があるのは、いいものがある。100湯目の銭湯。横浜の古い街並みに佇む落ち着いた銭湯だった。銭湯の近くには白熱灯の街灯もいくつかあって、レトロな臨場感を高めている。

古くからの焼肉屋、元町近くなると中華屋というより広東料理だとか北京料理だとかのこれも古くからの中華料理店が多くなって来る。結局、上野町の「ラーメン大好き小池さん」というラーメン屋でとんこつラーメンに半チャーハンを食べ、前のバス停から横浜駅に出た。元町を散歩するのもいいなと思ったけど、3湯に浸かり、10キロ以上も歩いている。少々疲れた。




(出所)横浜市浴場組合のHPより。





中区北方町(きたがたちょう) [明治34年4月1日設置]

町名の由来
 明治34年の横浜市編入の際、久良岐郡(くらきぐん)本牧村大字北方から新設された町です。古くは久良岐郡(くらきぐん)北方村といい、明治22年の市町村制施行の際、本牧村大字北方となりました。昭和8年に町界町名地番整理事業を施行しました。『新篇武蔵風土記稿』の「北方村」の項に「本郷村より北方に當(あた)れる故此(この)村あり」と記録されています。ここは横浜八景の一つで「北方晩鐘(きたがたのばんしょう)」と呼ばれました。晩鐘は妙香寺の鐘の音をいうのでしょう。町に1丁目と2丁目の字区域があります。
(出所)「横浜の町名」(横浜市市民局)より